第1178回淡青評論

七徳堂鬼瓦

入门者とともに学ぶ

教えると新しい発见をする。よく言われることである。私もそれを数限りなく経験してきた。目先のちょっとした改良につながることもある。自分が取り组んでいる分野の构造的な问题に気づかされることもある。

なぜ、このような基本的なことが教えられていないのか。様々な原因や文脉が浮かぶ。その分野の来歴、その分野の先端的议论の倾向、その里返しとして基本的なことにどのように対応しがちかという风潮、など。その基本的なことを重视している职业集団が存在しても、広い意味での専门家界隈の中ではなんとなく孤絶しており、外侧にいる多くの専门家はその存在さえ忘れかけている、ということもある。そこにひとつの「构造」がある。

そのような构造が継続すると、教える侧も、実は自分自身が駆け出しの顷にその基本的なことを教わったことがない。次の世代に、不确かな见よう见まねが伝承される。

先端に水をさすのは避けるとしても、环境を少しずつ変えることはできる。このような基本がある、これを知っていれば応用が効く、実はこれが正统的である。そうしたことをそれとなく提示して、浸透を図れば、その分野の改善につながり、新たな时代の构造をつくることもあるかもしれない。

入门者はどのような状况に置かれているのか。何が教えられているのか。そもそも専门家は入门者との间に接点を持っているのか。

その基本的なことを重视している职业集団では、日々どのようなことが语られているのか。何が依拠されているのか。なぜ、なんとなく孤絶しているのか。どうすればそうした集団から教わることができるのか。

そのような构造に思索をめぐらせることそれ自体が楽しいし、解决策を构想してそれとなく提示するのは、この社会の将来に贡献する可能性も高い。それらのことに取り组むのは、先端と同じくらい、知的に高度な営みである。

それは、昔の自分が违和感を持った诸事象についての壮大な答え合わせともなる。

白石忠志
(法学政治学研究科)