「歴史を记述する」ということ 史学会125年の歩みと発展

日本最古にして、全国におよそ2500人の会員を持つ史学会が2014年11月、創立125周年をむかえます。東京大学で生まれた史学会が歩んできた歴史は、日本におけるアカデミックな歴史学そのものの歩みでもあります。ここでは、その長い歴史をふり返るとともに、2012 年4 月に旧財団法人から公益財団法人として生まれ変わった史学会の発展を探ります。
御雇外国人ルートヴィヒ?リース

図1:ルートヴィヒ?リース(1861~1928)は、ベルリン大学でハンス?デルブリュックに师事し、ランケが确立した近代歴史学を学びました。来日したのは1887年で、1902年まで世界史、史学研究法を讲じました。
东京大学文书馆所蔵资料
史学会の创立を语る上でどうしても欠かすことができないのは、帝国大学の招聘を受けて来日したドイツ人歴史家、ルートヴィヒ?リースの存在です。明治维新后、欧米の先进文化を取り入れるため、政治、法律、军事、経済などあらゆる分野の御雇(おやとい)外国人が日本にやってきましたが、リースもそのうちの一人でした(図1)。彼が日本にもたらしたものは、レオポルト?フォン?ランケらによって树立された近代歴史学、すなわち史料(歴史资料)を収集し、それを批判的に分析し、事実を再构成するという実証的な歴史研究の手法です。
ベルリン国立図书馆所蔵のリース书简および帝国大学での讲义録や着作などを研究した东京大学大学院法学政治学研究科长の西川洋一教授は、当时のリースの授业について次のように説明します。
「ドイツの大学では歴史研究の方法を学生に学ばせるため、演习(ユープンク)という授业形式を重视していましたが、リースは日本でもそれを採用しました。たとえば1888(明治21)年の演习で取り扱われた岛原の乱の研究では、日本侧の史料だけでなく、オランダ商馆やキリスト教会関係などヨーロッパ侧の史料を集め、それらを比较検讨しながら蜂起の経过から镇圧の过程に至るまでを再构成し、成果は论文として発表されました。学生たちは単にリースの讲义を聴讲するだけでなく、日本语の古文书を英訳するなどして史料分析に积极的に関わることで、近代的歴史学の手法に习熟したのです」(図2)。

図2:リースが岛原の乱を扱った演习の成果は、当时学生だった磯田良氏によって论文にまとめられ、『史学雑誌』第1编13号に掲载されました。リース自身も1890年に『ドイツ东アジア协会纪要』に同テーマの论文を発表しました。磯田氏は帝国大学の讲师になった后、ドイツ、オーストリアに留学。帰国后、东京高师教授をつとめました。
东京大学総合図书馆所蔵资料
正冈子规は随笔『墨汁一滴』で、自分が帝国大学を落第したのはリースの授业を落としたからで、その后もしばしば试験に苦しめられる悪梦を见ること告白していますが(6月16日の稿)、そのような学生は子规だけに留まらなかったようです。
「讲义録を読むと、リースはドイツの大学で行われていたものと逊色のない、高いレベルの授业を行っていたことがよくわかります。リースを知る在日ドイツ人の书简には、彼が学生に対して厳しすぎるので大学と揉めている、といった记述を见つけることができます」。
日本に早く根づいた近代歴史学
リースはまた、帝国大学に国史科が开设したことを机に同僚の重野安绎教授らに学会の设立と雑誌の刊行を勧め、その结果1889(明治22)年11月1日には、史学会発表会を兼ねた第1回学会が文科大学第10番教室で行われ、同年12月15日には『史学会雑誌』(后の『史学雑誌』)の第1号が発行されました(図3)。研究者のネットワークとしての史学会、および研究成果公表のためのフォーラムとしての『史学雑誌』を设けることによって、东京大学に日本の近代歴史学は诞生したのです。今から125年前のことでした。

図3:1889 (明治22)年に創刊した『史学雑誌』は、日本で最も古い歴史学の学術雑誌です。論文はすべて厳しい査読を経て掲載されるため水準が高く、日本史、東洋史、西洋史に限らず、総合的に歴史を扱っています。
东京大学総合図书馆所蔵资料
ところで、現在まで続く主要な歴史学雑誌としては最古のものであるドイツの『Historische Zeitschrift』の創刊は1859年、イギリスにおける歴史学雑誌『English Historical Review』の創刊は1886年、アメリカ歴史学会の『American Historical Review』の創刊は1895年であることを考えると、ヨーロッパで生まれた近代歴史学の基礎は、驚くほど早い時期に日本に根づいたことがわかります。『史学雑誌』は2014年現在で123編におよび、毎年1 回開催されている史学会大会も関東大震災や第二次世界大戦、東大紛争による中止をのぞき、現在まで続けられています。
新しい公益财団法人へ
史学会は、创立当初から「日本史、东洋史、西洋史の别を问わず、歴史研究者や歴史学に関心を寄せるすべての人々に开かれた学会」であることを旨として活动してきました。
1929(昭和4) 年に財団法人として認可されてからは、主務官庁である文部省(現?文部科学省)の監督下で運営してきましたが、2012 年4 月からは新公益法人法の改正にともない、主務官庁を離れて内閣府の統一的な法的規制に準拠する新しい公益財団法人として生まれ変わることになりました。 史学会にとってこれは、どのような変化なのでしょう?
「ひとことで言えば、公益目的事业としての学术研究という侧面を考虑し、これまで以上に専门的歴史研究の成果を広く社会に还元する団体になるということです」と説明するのは、公益财団法人移行时に史学会の理事长をつとめていた人文社会系研究科の深沢克己教授です。
ところが、その移行にはいくつもの困难があって、当初は理事会や评议会の内部で「不可能ではないか」という反応が支配的だったと深沢教授はいいます。というのも、新しい公益财団法人として认可を受けるには、厳しい认定条件を満たす必要があったのです。
「最も大きな困难は、理事と评议员の兼任を禁止し、特定の亲族や団体の构成员が理事会または评议员会の3分の1以上を占めてはならないとする条件でした。理事の大多数が东京大学教员から选出されていた史学会にとっては、组织のあり方を大きく変えなければなりませんでした」。
「开かれた学会」は史学会の理念

図4:箕作元八の写真
箕作元八(1862~1919)は1886(明治19)年にドイツに留学して専门を动物学から史学に転じた后、再びドイツ、そしてフランスに留学して帰国后は、リースと入れ替わる形で东京大学の西洋史教授をつとめました。着书『仏兰西大革命史』全2巻は、日本最初の学问的革命史として评価されました。
东京大学総合図书馆所蔵资料
公益财団法人への移行を断念し、法的规制がやや缓和される一般财団法人として申请するという选択肢もありましたが、それは消极的な选択に过ぎませんでした。
「結果的に、評議員の人数を大幅に削減するとともに、理事会の構成に3分の1ルールを適用することを実現できたのは、この変革がむしろ、史学会の新しい発展と飛躍につながるのではないかと結論したからです。そもそも史学会は、大学内で完結するような閉鎖的な学会ではなく、門戸を外に開いた全国学会であることを目指してきました。1913(大正2)年に行われた第15回大会で箕作元八(みつくりげんぱち)教授が行った『史学会の過去及び現在』という講演でも、すでにその方針がはっきり語られていますし、世界大恐慌が始まった1929(昭和4) 年に財団法人として認可されたのも、全国学会としての自覚にもとづき、学術的な成果を広く発信するために行われたのです。その理念を再確認することで、組織変革を決断することができました」(図4)。
125年の蓄积から见えてくるもの
新しい公益财団法人となった史学会は、创立125周年をむかえる2014年9月から12月にかけて、4つの公开シンポジウムを开催します(図5)。
史学会の新理事の一人で、このシンポジウム开催に深く関わっている东京大学大学院人文社会系研究科の姫冈とし子教授はその内容をこう语ります。
「4つのシンポジウムは、大阪大学歴史教育研究会、东北史学会と福岛大学史学会、九州史学会との连携によって生まれたもので、これが初めての试みです。史学会の会员には东京大学の卒业生はもちろん、他大学からも多くの史学科の卒业生がいます。そのような全国に広がったネットワークがあったからこそ、実现できた大规模な大会といえるでしょう。会场ごとに异なるテーマを掲げていますが、単なる発表の场で终わるのではなく、活発な议论が行われる対话の场となることでしょう」。
11月8日に东京大学本郷キャンパスで行われる3回目のシンポジウムのテーマは、「近代における戦争と灾害?环境」。开戦からちょうど100年间がたった第一次世界大戦を灾害としてとらえ、环境面への影响など现代的な视点から分析する新たな试みです。
姫冈先生は続けます。「125周年という分岐点は、これまでをふり返る一つの契机ですが、実証を通じて歴史を学术的に记述していくという史学会の基本精神は今后も変わらず続いていきます。贰.贬.カーは、『歴史とは现在と过去との间の尽きることを知らぬ対话』だと述べていますが、史学会の125年间の学术的な成果とその蓄积は、私たちの生きる指针として存在し続けていくでしょう」。
取材?文:内藤孝宏 (ライター)
取材协力(アルファベット顺)

深沢克己教授

姫冈とし子教授

西川洋一教授