日本の知、空を翔(かけ)る 东京大学が拓く航空宇宙工学

1909年12月5日の朝、第一高等学校グラウンド(现东大农学部グラウンド)に、竹の骨组みに白布を张り、鉄线を巡らせたグライダーが运び込まれました。これに纲を结び、大势の学生が全速力で引っ张ります。すると机体はスーッと浮き上がり、高度3.6尘で15尘ほど滑空し、フワッと着地しました。乗っていたのは、男の子です。「これが非公式ながら、日本でのグライダーの初飞行だと思います。ここから本格的な航空研究が始まったのです」と、东大大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻の铃木真二教授。
开発したのは、仏国大使馆附武官のル?プリウールと海军大尉の相原四郎、そして东京帝国大学理科大学(现东大理学部)教授の田中馆爱橘。ル?プリウールは、仏のパンフレットに载っていた図面に基づきグライダーを製作しましたが飞ぶことができず、知人の相原が、田中馆に绍介したのです。以后3人で协力して开発を进めてきました。当初は车で引っ张る予定でしたが、故障して来られなくなったため、体重の軽い子供を载せ、人力で引っ张ってみたのです。12月9日には不忍池の沿道で、车で引っ张る试験が行われ、ル?プリウールが飞び、公式初飞行となりました。
「このグライダーは、世界的にみても非常に进んでおり、エンジンとプロペラを付ければ、动力飞行ができるくらいまでいっていた」と铃木教授。しかし、翌年6月にル?プリウールが帰国の途につき、3人のグライダーに动力を积む机会は失われてしまいました。
日本で初めて动力飞行に成功したのは、陆军大尉日野熊蔵と徳川好敏です。両者は1910年4月に仏国に派遣され、飞行机学校で学びました。その后、飞行机を购入して帰国し、同年12月19日に独机と仏机で成功させました。
その顷、东京帝国大学造兵科の出身で元海军技师の奈良原叁次は、自力で机体を製作し、1911年5月5日に仏製エンジンを载せ飞行に成功しました。ライト兄弟の动力初飞行が1903年12月17日ですから、遅れることわずか7年半で国产机が飞んだことになります。
田中馆、航空研究所をつくる
田中馆はもともと地磁気や地震の研究者でした。1907年8月にパリの国际度量衡総会に出席して飞行船を目の当たりにし、英国の研究者から航空力学の本を寄赠されたことが、航空研究を始めるきっかけとなりました。
帰国后、早速に日本で初めての风洞をつくりました。长持ち(着物などを入れる盖付きの木箱)の一端から他端へ空気を送り込めるようにし、侧面に付けたガラス窓から、中に吊るした模型の様子を観测できるようになっていました。グライダー製作でも、风洞実験が行われたのでしょう。
田中馆は航空研究には基础が重要だと痛感していました。そこで1918年に东京帝大附属の航空研究所をつくり、工学部造船学科内に航空の讲座を设けました。讲座は1920年に航空学科へと発展しましたが、世界的にも早い设置で、例えば、マサチューセッツ工科大学でも、学部に航空学科が设立されたのは1926年のことです。
航空研究所はすぐに日本の航空研究のメッカとなりました。その金字塔は「航研机」(航空研究所试作长距离机の略称)の开発です。独製エンジンを改造し、国产の机体に搭载した航研机は、1938年5月13日から62时间以上も関东上空を飞び続け、周回航空距离10651.01办尘の世界记録を打ち立てました。これは现在に至るまで、日本唯一の国际航空连盟公式认定の记録です。
海外技术の导入から始まった航空机产业も、30年代に入ると独自开発が本格化し、航研机はその象徴でもありました。航空学科の卒业生はこれらの开発を担い、日本の航空产业の屋台骨を支えました。ゼロ戦の设计?开発で有名な堀越二郎もその一人です。「航空界の将来を见据えて研究教育体制をつくった田中馆は、日本航空界の父といえるでしょう」と铃木教授は强调します。
7年の空白を経た日本の空模様
世界のトップレベルに并んだ日本の航空界は、1945年8月の败戦によって、骋贬蚕(连合国総司令部)からすべての航空活动が禁止され、航空学科も廃止となりました。7年后の1952年にサンフランシスコ讲和条约が発効されると、禁止が解除されるようになり、1954年には东大の航空学科も再开されました。そして再开の象徴として国产民间旅客机开発が始まったのです。
1957年に第2驹场キャンパス内に(财)输送机设计研究协会が设立され、基础设计が始まりました。そして1959年に设立された特殊法人の日本航空机製造により、60人乗りで1200尘の短滑走路も使えるプロペラ旅客机「驰厂-11」の开発?製造が进められました。これには本学航空学科の戦前?戦后の卒业生が多数携わりました。1962年に初飞行を行った驰厂-11は徐々に名声を上げ、1973年の製造终了时までに182机生产され、世界12か国に输出されました。
戦后は宇宙开発の幕开けでもありました。戦时中に一式戦闘机「隼」の设计にも関与した、本学生产技术研究所教授の糸川英夫は、1955年3月にペンシルロケットの最初の発射実験を行いました。长さ20肠尘余のロケットで、当初は水平に発射されていましたが、その后、上方に打ち上げられるようになりました。
予算の制約から小さな固体燃料(火薬)ロケットの開発から始め、これを徐々に大きくして実用化しようというのが糸川の計画でした。その目論見通りに開発は進み、1964年には宇宙航空研究所が本学に設立され、1970年2月にはラムダロケットが日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げました。その後、1981年には全国大学の共同利用機関として宇宙科学研究所へ、2003年にはJAXA宇宙科学研究本部へと組織が変わり、 糸川教授の成果が引き継がれています。現在、東大ではJAXAにより設置された社会連携講座によりロケットエンジンシミュレーション技術の高度化に関する教育?研究が行われています。
21世纪の航空ビジネスをつくる
话を航空机に戻すと、ビジネス面での成功が难しかった驰厂-11の経験から、政府の方针が変わり、民间航空机は欧米の航空机会社との共同开発が主眼となりました。日本公司は1970年代以降、米国ボーイング社の767、777の共同开発に参加し、分担を15%、20%と上げてきました。そして2000年代の787では、35%とボーイング社と同じ担当割合になりました。しかも、同社が手放したことのない主翼が含まれており、炭素繊维复合材料での开発製造が进められています。
2008年、驰厂-11以来半世纪ぶりに国产旅客机「叁菱リージョナルジェット(惭搁闯)」の事业化が决定されました。叁菱重工株式会社が主要出资者である叁菱航空机株式会社が开発の主体で、70、90席の2クラスの机体开発が目指されています。优れた运航経済性、客室快适性、环境适合性などの利点があり、すでに日本、米国、香港のエアラインとリース会社からオプション、基本合意を含め230机の発注があります。
「现代航空论-技术から产业?政策まで」东京大学出版会
航空机製造では、设计、製造、贩売、そして整备?修理?大规模修理というアフターサービスまでカバーせねばなりません。しかし、驰厂-11から半世纪近くたち、民间机製造に関する制度やビジネスモデルをつくり直す必要があります。また、航空输送に関しても世界情势は大きく変化しています。そこで叁菱重工によって2009年に『航空イノベーション総括寄付讲座』が本学に设けられ、航空の新世代を拓くための研究と教育が始まりました。
讲座を担当する铃木教授たちは、という教科书を最近上梓しています。「航空技术はもちろん、政策から航空机製造产业の特质までを扱っており、世界にも类を见ない画期的な教科书だと自负しています」。
このような讲座から巣立つ若者は、世界の空をどのように変えていくのでしょうか。
参考文献
村冈正明着『航空事始』(光人社狈贵文库)
前间孝则着『飞翔への挑戦』(新潮社)